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国立西洋美術館
国立西洋美術館
〒110-0007 東京都台東区上野公園 7-7


日伊国交樹立150周年記念

CARAVAGGIO 国立西洋美術館

CARAVAGGIO
and his Time: Friends, Rivals and Enemies

 ミラノに生まれたミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ (1571-1610年) は、西洋美術史上最も偉大な芸術家のひとりであり、イタリアが誇る大画家です。 彼の理想化を拒む平明なリアリズムや、劇的な明暗法によって浮かび出る人物表現は、バロックという新時代の美術を開花させる原動力となりました。 彼の画法はイタリアのみならずヨーロッパ中からやってきた画家たちによって熱狂的に継承され、その影響はルーベンスやラ・トゥール、レンブラントなど、17世紀の数多の画家たちに及んでいます。
 本展には、11点のカラヴァッジョ作品と、彼の影響を受けた代表的な継承者たち (カラヴァジェスキ) による作品をあわせ、計 51点が展示されています。 これはカラヴァッジョの現存する真筆が教会の祭壇画など移動不可能な作品を含めて 60点強と言われるなか、日本では過去最大、世界でも有数の規模となります。


会期: 2016 3/1 [火] 6/12 [日] 展覧会は終了しました。
休館日: 毎週月曜日 (ただし 5月 2日は開館)
開館時間: 午前9時30分 ― 午後5時30分 (金曜日は午後8時まで)
※入館は閉館の30分前まで

会場:
国立西洋美術館 東京・上野公園
主催:国立西洋美術館、NHK、NHKプロモーション、読売新聞社


'2016 2_29 「カラヴァッジョ展」の開会式 & プレス内覧会の館内風景の画像です。
画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。

「カラヴァッジョ展」開会式

日伊国交樹立150周年記念 「カラヴァッジョ展」
開会式
国立西洋美術館 '2016 2_29


カラヴァッジョ ―バロック美術の創始者にも数えられる偉大な画家

【展覧会の見どころ】 ― 「カラヴァッジョ展」図録、プレスリリースなどからの抜粋文章です ―

 カラヴァッジョの傑作 11点が集結 38歳で没した彼の現存する真筆は 60点強と言われています。 教会に設置されるなど移動不可能な作品も多い中、この規模の出品数は日本で過去最多、世界でも有数の内容です。

 カラヴァッジョの絵をキーワードで読み解く カラヴァッジョの芸術とその革新性を理解するために重要な、「風俗」、 「五感」、「静物」、「肖像」、「光」、「斬首」、「聖人」 などのキーワードを章のテーマに展覧会を構成。 多くの継承者 (カラヴァジェスキ) を生んだその革新性と魅力にせまるとともに、カラヴァッジョの芸術の何が 17世紀の芸術家たちを惹きつけたのか、その秘密を探ります。

 遺された古文書から、カラヴァッジョの人物像にせまる 天才画家にして諍いが絶えず、事件を起こし、投獄されてはパトロンや友人に助けられていたカラヴァッジョ。 当時の裁判記録などをもとに、生来の激しい気性から殺人を犯し、逃亡を余儀なくされた画家の波乱万丈の生涯を辿ります。 作品と併せて見ることで、彼の芸術と人物像の両面を同時に理解することができます。

カラヴァッジョ展」の展覧会構成
T 風俗画:占い、酒場、音楽
U 風俗画:五感
V 静物
W 肖像
X 光
Y 斬首
Z 聖母と聖人の新たな図像
ミニ・セクション:エッケ・ホモ


'2016 2_29 「カラヴァッジョ展」のプレス内覧会の館内風景の画像と、「カラヴァッジョ展」図録・出典資料などからの抜粋文章です。

カラヴァッジョ《女占い師》

T 風俗画:占い、酒場、音楽
 カラヴァッジョがローマに到着したころひどく貧乏だった、ローマの数多い工房から依頼されるどんなつまらぬ仕事も喜んで引き受けたという。 それらはまるで重要なものではなく、日々の糧を得るために描く祈念画の複製であった。 暴力、喧嘩、裁判、逃亡、追跡という連鎖はローマ逃亡後も繰り返され、周知の通りカラヴァッジョはナポリ、マルタ島、シチリア島そして再びナポリを渡り歩き、終にトスカーナの海岸で息絶える。 しかし、ローマの町中や居酒屋での生き様とは関連づけられない他の友人関係や知的関心が果たした役割についても、忘れてはならない。 1603年のカラヴァッジョに対する裁判が証明するように、工房では、ものや人物を模写し、モデルを用いて仕事をしていた。 また同じ裁判でジェンティレスキ (芸術家) は彼とカラヴァッジョの間で僧衣や羽を貸し借りしたと回想している。 また他の史料には、モデルや子供たち、近所の少年、娼婦、巡礼者がカラヴァッジョの作品に用いられたことが証言されている。 大成功を収めた初期作品のひとつは、詩の世界が絵画のそれに似通っていて、神話や古典文学に基づく主題のみならず庶民の生活を主題とするような環境にカラヴァッジョが接触していたことを証言している。

カラヴァッジョ  《女占い師》  1597年頃 油彩/カンヴァス 115 x 150cm ローマ、カピトリーノ絵画館

 ・ ひとりの若くて美しいジプシーの女が金持ちの若者の手相から運勢を見る口実で指輪を抜き、盗むというこの特殊な主題について、カラヴァッジョの芸術的立場を集約するものとして 《女占い師》 を解釈しようとすることは、17世紀に既に始まっていた。 17世紀初頭にカラヴァッジョの継承者によって何度も手掛けられる主題となり、実際、イタリアとヨーロッパの芸術家たちは、この作品から霊感をえて同じ主題の異作を繰り返し描いたのである。 この数十年間研究の結果、本作はカラヴァッジョの若い頃の真筆であり、ローマに移住して間もない頃の作品だと認められる。


カラヴァッジョ《果物籠を持つ少年》

V 静物
  15世紀以降、カラヴァッジョの生地ロンバルディア地方の絵画伝統は、目に見えるもの、特に自然光に照らされた対象を仔細に観察することが基本となっていた。 こうした傾向は、1482年から 99年と 1508年から 13年の 2度にわたってミラノに滞在したレオナルド・ダヴィンチが生み出したもので、カラヴァッジョにとっては決定的な意味を持っていた。 彼がミラノで生まれ、そこで修業時代を送ったのは単なる偶然ではなかったのである。 このレオナルドの伝統を受け継いで生まれたのがイタリア初の静物画とされる。 カラヴァッジョはローマにやってくる前に、こうした自然主義の土壌で自らの文化的な素養を培っていた。 カラヴァッジョは間違いなくレオナルドの作品や、16世紀末に幕を下ろすミラノの自然主義の伝統に深い理解を有し、立ち返り、それを復活させた。 ただそうした自然主義の再評価は、彼がローマで初めて目にした古代美術を介してなされたものであり、その経験がなければこの特殊な主題を着想することはなかっただろう。 さらには、16世紀末に依然としてローマで脈々と受け継がれていたラファエロの古典主義芸術からの影響も指摘することができる。

カラヴァッジョ 《果物籠を持つ少年》 1593-94年頃 油彩/カンヴァス 70 x 67cm ローマ、ボルゲーゼ美術館

 ・ 紅顔の少年がりんご、桃、洋梨、ざくろ、ぶどうなど様々な果物を盛った籠を携えて表わされています。 これはカラヴァッジョがローマのカヴァリェーレ・ダルピーノの工房で下働きをしていた頃の作品と考えられます。 ダルピーノの工房では 「花や果物を描く仕事を与えられ、それらを本物と見紛うばかりに描いた」 と伝えられているからです。 こうした静物の写実的表現は、カラヴァッジョの生地ロンバルディア地方に伝統的な分野であり、彼の初期作品では画家の技巧を誇示する格好の要素として、盛んに取り入れられました。


カラヴァッジョ《エマオの晩餐》

X 光
  カラヴァッジョ絵画において、暗闇は形態を構成するものであり、構造的な価値を備えているのである。 世界を覆う暗闇は絵画の世界における行為、仕草、精神状態、表情を増幅し、その結果として描かれた場面に活力を与え、物語における 「時と場所」 を確固としたものにする。 カラヴァッジョの光は、現代の写真技術において 「斜光」 や 「サイド光」 と呼ばれる照明方法に対応する。 順光と逆光の中間撮影方向に対して 0度から 90度の間の角度に光源を設定する方法である。 この照明方法は効果的に陰影を作り出し、彫刻のような造形的な明確さで対象を表現することが可能になる。 カラヴァッジョに関しては、アトリエの天井の大部分を撤去することによって室内にともかくより多くの光を取り込むことができただろう。 そしてその光を、モデルの向きや配置に従って調整することが可能になった。 カラヴァッジョの絵画は高所の斜めからの光を採用しているが、モデルは奥の壁に差し込む光線によって照らし出されている。 アトリエの窓やおそらくは屋根裏にあった開口部からの光は、照明に関してより幾何学的な効果を生み出すことができただろう。

カラヴァッジョ 《エマオの晩餐》 1606年 油彩/カンヴァス 141 x 175cm ミラノ、ブレラ絵画館

 ・ エマオの町にいたキリストの弟子 2人が、その正体を知らずに復活したキリストを夕食に招きます。 しかしキリストがパンを祝福して裂いた瞬間、彼らは客人の正体を悟ります。 カラヴァッジョはこの新約聖書に基づく場面を生涯に 2回描きましたが、本作は 2作目にあたります。 既に 17世紀からカラヴァッジョの反アカデミックな自然主義の表現として評価された。 簡潔な人物表現や、人物の自然なポーズ、縁の欠けた皿や壺、人体の解剖学的な探求の欠如にそれが表れている。 劇場的な効果や、光源を示さずに神の存在を表現する光の用い方、人物や情景のみすぼらしさは、16世紀のロンバルディア文化に由来する。 1606年 5月、カラヴァッジョはテニスの試合の賭け金のいざこざにより殺人事件を起こしてローマから逃亡、しばらくの間ローマ東郊にあるコロンナ家の領地を転々として身を隠しました。 本作は、その際滞在したザガローロという町で描かれたと伝えられます。


カラヴァッジョ《法悦のマグダラのマリア》

Z 聖母と聖人の新たな図像
 カラヴァッジョの宗教作品が、16世紀において練り直されたデコールム (decorum) というキケロに根ざした美学上・論理上の基準を常に満足させるものでなかったことは、認めなければならない。 しかしながら、彼の作品の明快さや伝達の効果、主題の本質を飾らずに見る者に理解させる力は疑うべきもない。
 結論として、カラヴァッジョは聖人図像を根底から変革したとはいえ、実際彼の聖人像には、関連する教則集や聖人伝に述べられた考えと合致する点が少なくない。 もちろん、こうした変革は彼の驚くべき自然主義によって生々しく表現されたものであるがゆえに、熱狂的な賛同を得る一方で辛辣な批判も受け、画家は受け取り拒否という辛酸を嘗めたのであるが。
 カラヴァッジョの絵画は、とりわけ晩年の公的な場に置かれた宗教画は、見る者に感動と喜びを与えずにおかない。それとは異なって、より 「自由気ままな」 聖人像は個人のために描かれたものなので、画家に一層の自由を保証した。 これらの絵は何よりヌードの身体を称賛するもので、そこに殉教の持物やら象徴やらが任意に当てはめられる。 ヴェネツィアの偉大な伝統から引き継いだ表現形式を発展させたものだ。

カラヴァッジョ 《法悦のマグダラのマリア》 1606年 油彩/カンヴァス 107.5 x 98.0cm 個人蔵

 2014年、カラヴァッジョ研究の権威であるミーナ・グレゴーリ氏が本作を発見し、カラヴァッジョの真筆による第一ヴァージョンとして公表しました。 本展が世界初公開となります。 様々な調子で描き分けられた肌の色、顔つきの鋭さ、肩から胸にかけて長く広がり、陰影に沈んだ頭部では重くのしかかる金色の長髪といった点が、作品としての質の高さを証明している。 キリスト教世界で篤い尊敬を集める聖女のひとり、すなわち娼婦からキリストの最も熱烈な弟子となった聖女マグダラのマリア、《法悦のマグダラのマリア》 においてカラヴァッジョはマグダラのマリアの精神が肉体から離れ、法悦に至り、この世の生を後にして、死を経て、自然そのものを超える天上の喜びに到達する瞬間を描いた。 彼女の姿を描くことで画家は彼自身も彼女のように悔い改める覚悟ができていることを示し、恩赦を求めたのである。


 独創的な画家であり、自然主義者としての彼の劇的な描写は、
西洋美術史を変えるほどに革新的でした。


作者不詳《カラヴァッジョの肖像》

作者不詳 《カラヴァッジョの肖像》 1617年頃 油彩/カンヴァス 61 x 47cm
ローマ、サン・ルカ国立アカデミー

 本肖像は、ローマのサン・ルカ国立アカデミーに所蔵される、17世紀の同地で活躍した芸術家たちを同一のフォーマットで描いた一連の肖像画群中の1点である。 作者を同定することは難しいものの、カラヴァッジョの似姿を伝える17世紀初めの油彩として大変貴重である。

カラヴァッジョ、「とてつもなく奇抜な男」 ―図録よりの抜粋文章です―
ロッセッラ・ヴォドレ (本展監修者・美術史家、前ローマ国立美術館群特別監督局長官)

 ミケランジェロ・メリージ、後に一族の出身地の名を取ってカラヴァッジョと呼ばれることになる男は、おそらく大天使ミカエルの日の 1571年 9月 29日、ミラノに生まれた。 4人兄弟の長男で、父は石積み工の親方フェルモ、母はルチア・アラトーリと言った。 1584年、弱冠 12歳半のカラヴァッジョは、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの弟子でミラノに工房を持っていたベルガモ出身の画家シモーネ・ペテルツァーノ ( 1540- 96) のもとに預けられた。 ミラノにおける修業は 1588年まで 4年間続いたが、その後 1591年までの 3年間の消息は何ひとつ分からない。
 カラヴァッジョがローマにやってきた時期は 1595- 96年頃となる。 1600年という聖年を目の前に控え、アルドブランディーニ家出身の教皇クレメンス 8世はプロテスタントと対決するために教皇の存在感を強調しようと、様々な装飾事業を開始した。 この壮大なイベントに駆り立てられ高位聖職者たちやその一族は財力を惜しげなく祝祭の準備につぎ込んだが、それに鼓舞された有力枢機卿たちは建設事業を新規に始め、あるいは完成させ、廃墟と化した聖堂を再興し、キリスト教関連のローマのモニュメントを修復した。 これほどまでに大きなスケールで繰り広げられた聖俗の芸術保護活動は、膨大な注文によって遅からずイタリア全土さらにはヨーロッパ各地から大勢の芸術家たちをローマに呼び寄せた。
 1599/1600年以降、カラヴァッジョには公私の注文が次々となされ始める。 あたかもローマにおいては彼の絵を持つことが一種のステータス・シンボルとなったかのようであった。 自身のコレクションのため、もしくは一族の礼拝堂のために皆が彼の作品を欲しがっていたかのように見える。 聖職者、貴族、銀行家、法律家、さらには信心会(教皇庁馬丁組合)までもが彼に注文した。
 1599年、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の両側壁に、聖マタイ伝のエピソード 《聖マタイの召命》 と 《聖マタイの殉教》 を1年以内に完成させるという注文を得たのである。 この注文はカラヴァッジョにとって、表現手段を確立する上で紛うことなき 「修練の場」 となり、それを通じてローマの芸術界における名声を確固たるものとした。
 1605年 5月 28日日曜日のこと、地区の顔役ラヌッチョ・トマッソーニと決闘に及んだのである。 友人で中立のマンチーニは、カラヴァッジョが挑発され、「己の身を守ろうと、オノーリオ・ロンギの助太刀をえて相手を殺傷した」 と記している。 カラヴァッジョには死刑宣告が出され、それは彼の苦難に溢れた晩年の日々を執拗に苦しめることとなった。
 その後逃亡と待ち伏せ、大胆な脱走に彩られた 4年の亡命生活を送り、教皇の恩赦を得る日が近いことを当てにして、ローマに向かった。 1610年 7月 18日、ポルト・エルコレ病院で、最期の時を迎えるのである。 愛するローマにこの不運な大画家が戻ることはなかった。 カラヴァッジョの 39年にも満たない人生は、惨めな死によって幕を閉じた。

 現実の示唆的な表現、光の劇的な効果、図像構想の独創性、そして彼以前には見られなかった極めて独自の絵画技法がカラヴァッジョの作品すべてを特徴づけるものです。 同時に、それらが彼の作品の近代性や魅力の本質であり、ここ数十年間に全世界を席巻している 「カラヴァッジョ・ブーム」 を作り出しているのです。


お問合せ:03-5777-8600 (ハローダイヤル)
展覧会サイト:http://caravaggio.jp
国立西洋美術館サイト:http://www.nmwa.go.jp/
主催:国立西洋美術館、NHK、NHKプロモーション、読売新聞社

後援:外務省、イタリア大使館
協賛:損保ジャパン日本興亜、凸版印刷
協力:アリタリア-イタリア航空、日本貨物航空、日本航空、西洋美術振興財団


参考資料:「カラヴァッジョ展」図録・ 報道資料 など。
※写真撮影の掲載等は、主催者の許可を得て行っております。


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